ミューズは願いを叶えない


「恐いんですか? 牙琉検事」
 (そんな事あるもんか)と告げる声とは正反対に、王泥喜の腕をきつく締め上げる緊張に苦笑した。表情を抑えようと努力している様が、嗤いを誘う。
 けれど、そんな些細な事が王泥喜に余裕を戻してくれた。
何か言おうとする響也の口を掌で塞ぎ、自分の唇に人差し指を当てて静かにしてくれと合図を送る。相手は腐っても天才検事。心情はどうあれ沈黙を保ち、なおかつ指で右隣のベランダを示した。
 響也の耳はアーティストとして特別。王泥喜は頷き返して、音源の方向を了解する。王泥喜の耳では、ビルを吹き降ろす風のせいでいまひとつ音源が定まっていなかった。今日二度目の感謝を響也に感じ、心の中でだけでありがとうを告げた。
 素直に告げられないのは、何処か悔しいという感情が浮かぶからで、裏を返せば、それだけ相手の価値を認めていることに他ならない。

 足音を立てない様に慎重に隣のベランダとの境に向かう。コンクリートの壁が隔てた向こう側から、確かに音が聞こえ続けていた。
 そうして、音量を多少なりとも上げた音に、王泥喜は覚えがあった。何処かで聞いた事がある、霊障の類ではなく(そんなものも聞いた事はないが)、もっと現実的なものだ。自分がわかるのだから、かなり身近な感覚に違いない。けれどもそれが何なのか特定出来ない。
 暫くの間王泥喜は首を傾げていたけれど、そうだと思い立ち、響也を手招きする。彼の耳なら特定出来るかもしれない。
 しかし、変わらず嫌な音が聞こえているから、響也はあからさまに嫌そうな顔をした。そうして、首を左右に振って拒絶を伝えてくる。
 やっぱり、恐いんじゃないか!ええい、こんな時に我が侭を言いやがると、王泥喜はつい声を張った。

「早く来て下さい!!」

 あ…と同時に顔を見合わせる。当然ながら、その音は消えていた。


10月19日 某時間
某マンション前 路上
 
「間抜けですね〜王泥喜さん。」
 腕組みをしたみぬきは、可愛らしい眉の間に皺を寄せて、考え込むように首を傾いだ。背中から何か飛び出してこないだけマシだろうとは思ったが、王泥喜も取り合えず反撃に出てみる。
「音がするって事だけでもわかっただけ、お手柄だよ。」 
 だいたい、深夜営業は未成年には禁止なんですよ〜と全てを王泥喜に押し付けて温かな布団で眠りについた奴に苦情を言われる覚えはない。
「まぁ、その分調査期間が長くなったんで、請求金額が増える事になったし、ヨシとしましょう。王泥喜さんのツノも伊達についている訳じゃないって事ですよね。」
 酷く微妙は褒め言葉は、逆に王泥喜を凹ませる。
「…事務所を空けてる時に、弁護の依頼が来るかもしれないのに…。」
「来ませんよ。」
 キッパリサッパリみぬきは切り捨てた。
「昨日も、一昨日も、その前も来なかったじゃないですか。今日だって来ませんよ。それに心配は入りません。万が一、お客様が来てもパパがいますから。」

 …あの雑多な事務所の雑多な成歩堂さんを見た途端、一見さんお断り状態に成っているのだと王泥喜は涙を飲む。常に事務所を覗いた客は、まるで自分が異次元に迷い込んでしまったような表情になった挙げ句、元の世界に帰っていくのだ。

「何凹んでるんですか! これだってお仕事の最中ですよ、王泥喜さん。」
 バシンと背中を叩かれて、王泥喜は大いに噎せた。そして、俺の職業は(弁護士)だと心の中でシャウトする。
「イリュージョンにも悲しいけれど仕掛けがあります。さあ、暴かれたくない秘密を出歯亀の様に暴きに行きましょう!王泥喜さん。」
 何かのレビューみたく、歩道と車道を分ける路肩の上に乗った魔術師は、大きく手を広げてみせた。しかし、王泥喜が見たのは腕時計だった。
「ノリが悪いですね、そんなんじゃ、みぬきの前座は勤まりませんよ。」
「何で俺が前座なんだよ…っていうか、何をやるんだよ、其処で!?」
「…弁護でしょ? 得意の?」
 ガックリと膝をつきそうになった王泥喜の耳に聞き慣れたジャラジャラとガチャガチャという音が聞こえて、待ち人が来た事を知る。
 パッと明るくなったみぬきの顔とは対照的な、此の世の不機嫌を凝縮したような茜の顔が、響也の横に見えた。

「ったく、どうしてアタシがこんな事…。」
 おもむろに取りだしたかりんとうの袋を、珍しく響也が横から浚った。
「あ!何すんのよ!」
「今日は、それを食い散らかす前に報告してもらうよ、いいね。」
 いつもは大目に見ているんだと、釘を刺されれば茜に反論は出来ないだろう。本来、現場保持が重要な場所で菓子の屑をばらまく等は有り得ない行為なのだから。  この件は確かに王泥喜を凹ませてくれたが、響也の自尊心にもたっぷりと傷が入ったらしい。王泥喜が何を頼んだ訳でもないのに、自主的に協力を申し出て来たのだから。

…それも、職権乱用だ。

「はいはい、わかったわよ。ちゃんと調べてあります。」
 ムウと頬を膨らませて、茜は頭に乗っかったサングラスをぐいと指で押し上げる。それから、試験管にまみれた鞄の中から紙を取りだした。
「此処から見える、あのベランダがある部屋を調査した結果、やはり空き家になってます。
 賃貸契約のマンションじゃないから、空き家と言っても住人がいないだけで、家具の類はほぼ生活していた時のまま。専門の業者が一ヶ月に一回は手入れに入っているそうで、野鳥や動物が住み着いている可能性は低いそうです。
 ちなみに、不在の理由は普通に転勤、NYに家族で赴任中。外交官とか、そう言った職種の人が多く入居してるんで有名らしいわよ。
 ついでだから、依頼人も調べといたわ。貿易商ね、経営も健全だし悪徳業者ではないみたい。違法の薬品を輸入してくれないからちょっと、頭堅いけど。」
 当然だろうと、王泥喜はがっくりと肩を落とした。それでも茜は不満そうで、みぬきは同情の意を示している。
「…つまり、結論からいけば、自然現象以外ではあの音は起こらないという事だ。」
 響也は、今にも崩れそうな王泥喜の目の前で指を振ってみせる。
「そんな馬鹿な! だったら俺は声を出した時に急に音が止むわけがない。」
「そう、僕もそう思う。あの時、あの場所に、何者かの意志は存在していた。そうだろ?」
「勿論です。」
 ぐっと握った拳ごと王泥喜は身体を上げた。ピンと背を伸ばして、響也を見る。一瞬、腕輪が締まったのに、王泥喜は戸惑った。

 牙琉検事が動揺している?

 見た目が全く変化がないので、変な顔になったのは寧ろ王泥喜の方だったのだろう。一呼吸置いて、響也が微かに眉を歪めた。


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